はてなブログに降臨してみた

こんちゃ、ぶどう糖です。

 

挨拶って何を書けば良いのか分からないので、適当に書きます。

うーん。

そういや先日、彼女に言われてハッとしたことがあります。

「人生一度きりって言葉は一番嫌いな言葉。だって、夢や目標もってる意識高い人しか使わないもん。」

確かにそうかもしれません。

> 人生一度きりだから、いろいろ挑戦しないと!

> 人生一度きりだから、時間をムダにしないように心がけないと!

確かにこのような言葉ってちょくちょく目に耳にしたりしますよね

少し個人的な経験や思うところを入れながら、なぜ彼女は嫌いに思っているのか考えてみました。(当の本人は、ただ夢や目標がないからだけだと思いますが、笑)

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私を振り返ってみれば、鼻水垂らして、分けわかんない事言っていじられることにハマり、うんこで6年間笑い続けた小学生の頃や、お笑い芸人のネタをあたかも自分の閃きギャグとして一世風靡した(のちのバレる<伝説の猫が寝込んだ事件である)中学生の頃の自分は、そのような言葉を一度も使ったことがありませんでした。

高校の時も、体育の授業中に抜け出して、近くの山に生えてるタケノコを引っこ抜いて試合に没頭中の友達に投げたら喧嘩に発展し、先生に怒られてたような頃を思い出せば、偉そうに人生一度きりだから なんて人に言えたもんじゃないです。

当然、性格あっての言葉使いだと思うので、言葉を知っていても自分の個性と一致しないものは使わないわけですよね。

私が、「みんなほんとうに大好きだよ、いつもありがとう、らぶ!!」もしくは「お前ら黙って俺について来いよ」なんて言おうもんなら、ドン引きされるどころか、精神科に連れて行かれるまである気がします。みんなが知っている私の性格とかけ離れた言葉なので、、

しかし、最近では、人生は貴重だから大事に過ごさないと、と、人生一度きりが持つ本来の意味を考えるようになったのも事実です。

それは、とりあえず目先のことをできるだけ頑張れるようになったからなのか、そのおかげでここ数年でいろんな知識や情報を詰め込むようになり、人生や時間の貴重さを感じるようになったからなのか、、

単純に意識たかい系(笑)になびいてそれっぽく言ってる自分に酔ってる?

ですが、他人に偉そうに言ったことはないと思います。

 

少し小難しい話になりますが、、

私たちは生活する環境と交流する人たちが変わるだけで、知識や経験、ボキャブラリーが増えるとともに使う言葉が多様化します。おまけに、単なる単語力だけでなく、言葉の抑揚やあいづちのタイミング、声のトーン、話の広げ方など、様々な言葉遣いが変化することでより複雑な個性が表現できるようになります。一口に成長と言っても差し支えないと思います。

当然、家族に口調や言葉遣い、地元や学校の友達、職場の付き合いなどコミュニティによって流通するフレーズやテンション、受け入れられている私が違うわけです。もっと言えば、相手が知っている"私"を正しく出すことで安心感を与えて、お互いの記憶に刻まれた私を分かち合いながら、最近どう?って話をするわけですね、

コミュニティによって、ここではボケだけど、ここではツッコミ、ここではモブ的な役割分担が異なったりしますよね、5人全員ボケのグループはまだ経験がありません。

仮面を被るかのように"演じている"とは少し違うのかもしれませんが、異なる個性を表現するキャラクターを2つ3つと区別するように持つと、いつかは整合性がつかなくなり、時に「お前ってそんなキャラだったっけw」と言われてしまうような、それまで築いてきた関係に間が生まれることもあるかもしれませんし、意図してそう言われることが快感に思う人も少なくない気もします(男子によくみられる、新学期、夏休み終わりの俺は少し違うんだぜ 的な謎オーラを醸し出す君は要注意である)

これらは受け入れられている私の数だけ、それぞれが独立したコミュニティで私の人格が存在しているように見えます。つまりその数だけ誰かにとっての私が生じてしまうということです。

 

一方で、元々、どの人と接しても同じような個性を表現する人もいます、

・みんなから好かれる

・裏表がなさそう

・自分の意見を持っている

・雑談が面白い、話題に尽きない

・ちゃんと否定できる

ような人は、新しい環境で得た言葉も話し方も、うまくこれまでの自分と組み合わせて「私ver.7」 のようにアップデートするのが得意なのかもしれません。(散らばった個性を常に一つに重ね合わせる習慣がついているのかもしれません)

 

これらが人生一度きり と何の関係があるのか、ということですが、ある時を境に、どこで知ったか分からないけど、相手の人格が変わったように見えてしまう(まるで元から自分が夢や目標を持っていた人間であったかのような)別人格を表現するような言葉が"どことなく"出てくることがあると思います。言葉にはできないどこか悲しい感情を抱くわけです。先ほどの"受け入れられている私"を使って説明すれば、その人が一番自分の欲求を満たせたのだろうコミュニティでの人格を、全ての関係に上書きしているようなイメージです。人生一度きりという言葉は、ただ単に、どのように時間を使うかの一つの考え方に過ぎないものです。時と場と相手を間違えると、違和感満載の怪しい変な人に昇格しかねないように思います。この減少は、言葉が持つ意味の大きさと使っているその人の精神的な成熟度(ほかの言葉の使い回し)に差があるほど、大きな違和感を覚える気がします。彼女が嫌いと言っていたのは、その言葉に本来ついてくるべき内容の深さがその前後に無かったから、そう感じたのではないかと思いました。

確かに、難しい言葉や小洒落た文章を構成すれば、どこか賢そうでコイツ信頼できそうだな雰囲気は出るけど、会話を重ねるほどボロが出てしまうことで浅い残念な人に成り下がってしまうように思います。まあよく一般的な就活面接などでこれが散見されるわけですね、

また、大学のレポートでいろんな記事のコピペを繋ぎ合わせると違和感満載なヘンテコ文章が出来上がってしまうのも、同じ理屈かもしれません、

言葉の意味や文法も間違ってないのに、なぜか不自然な印象を感じ取ることができる"言葉"という生物的機能は、いかに優れた表現手法であるかを実感させられるなと思う今日この頃です。

彼女って偉大だなー

 

それでは、おやすみなさい(笑)